世の中そんなに甘くない!

『ひとすじの愛だけがこの地球も救うのに怖かった』ラブライバー兼推定発達障害者が書く適当ブログ

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悔しくて寝れなくて暗い夜

おととい夜に私のメンタルが完全崩壊した。私は夜に家を飛び出し2時間くらいずっと河原で泣いていた。風が吹く夜に川のほとりで独り座りながら涙を流すなんてとてもロマンチックな光景だな。自分が苦しいのはわかってるつもりだが、側から見たらロマンチックというか絵になるというか、とにかくこういう思考が先に来てしまうあたり私はやはり狂っているのだろう。それとも「河原で一人泣いちゃう私異端でカッコいい」という自分への酔いだろうか。どちらにせよ


ファットマン「イカれてるよ、お前」
私「それの何が悪い。うふふふふふ……」
 
こんな感じである。むしろ、私からすればイカれてるのは全部だ、人間の。わかりにくそうなアーマードコアのネタなんだけど使いやすかったのでつい使ってしまった。とにかく、精神が負の方向に切れた私はあらゆることに反発して家を飛び出し、河原で曲を聴き泣いていたのである。こうやって要約するとメンヘラ極まりないな。
精神的に安定してないというのは前から述べていた通りなのだが、躁状態(と呼んでいるけど医学的に正しいのかは知らない。ただ、前までの私は何も気にせず色々なことを楽しんでいたはずなのだが、そのようなテンションというか心持ちというか、そんなものが突然失われてこうなってしまった。ということで、このテンションが高く不安もなく何事も楽しめる状態を便宜上躁状態と呼ぶことにする)が終わって反動がきたのか極め付けにマイナス方向へ振れている。イライラと悲しみとつかの間の安息や楽しみ(散財してるとき、人と話してるとき、ブログを書いているときetc もっとも、気を紛らわせているという言い方でもいいかもしれない)、簡単に言ってしまえば常にこの3つのどれかに当てはまっていて、混ざったりもして、その中で私の心が揺れ動いているような感じだ。不安定な精神の影響か私はおとといも昨日も涙を流している。涙が出るというのはきっと悲しいとか苦しいとか辛いということなのだろうが、私は別に嫌ではない。この悲しさ、苦しさも含めて全部自分なのだ。例えば「押した瞬間私の過去が全て改変され平均以上のまともな人生がこの先保証される」というボタンがあったとしても私は絶対に押さないし「押した瞬間悲しさや苦しさから解放される」というボタンがあったとしても私は絶対に押さない。
 
涙を流せるって素晴らしい。痛みや苦しみ、悲しみや辛さって、悪いものではないと思う。別に、苦しんだ分辛い分あとに報われるとかいう安っぽくて適当な理論を持ち出したいわけでもない。私が捻くれてるからとかでもなく、純粋にそう思うのだ。いや、まぁ私だけかもしれないけど……ということで、予防線を張る。以下個人的な意見。
負の方向に昂った感情というのは、とても嫌だったり、何をしてでも遠ざけたかったり、そういう風に感じられるものだろう。私もそうだった。イライラしてたり悲しいときは本当に一刻も早く解放されたいと思う。
しかし、その感情に苦しんでいる自分がいることに安心する。私だけなのだろうか。「痛みを感じることで自己を再確認する」という「自傷行為」と過程は似ているかもしれない。
涙を流しているときも同じことを感じている。自分にはこんなに強い感情があった、なんだ泣けるじゃないか、と。涙を流しているときなんて感情がぐちゃぐちゃであることが多いのだが、なぜかそこだけは分離して考えられている。そして、根拠がどこにあるかホントにわからないのだが「こんなに強い負の感情を抱えていられる自分がいる」というのが誇らしいほどに感じられるのだ。別に誰にも理解されなくても誰にもわかってもらえなくてもいい。「私は泣き出してしまうほど強い自我を持っている。そして、例え今は泣いていても、涙が止まった時にまたその自我を動かせる」というのがたまらなく嬉しい。負の感情が昂ぶって泣いても、また立ち上がれる。はたから見れば自分で勝手に潰れて自分で勝手に立ち直ってるだけなのだが、そんなことでも勝手に誇れるのが私だし、案外私以外の人間もそうだろう。
 
今、泣いてしまうほど最高に辛いなら、泣き止んだあとはきっと今よりも少しだけ辛くない。
 
 
なんだかかっこよく終わりそうだが、ぶっちゃけ河原で泣いている時真姫ちゃんが後ろからそっと抱きしめてくれればいいなぁとか考えていた。
こんな私の夜明けは近いのだろうか。先行きが不安で仕方ない。色々な意味で。